目次へ  前ページへ  次ページへ


 第五章 教育と地方文化
   第一節 藩校と庶民教育
    三 寺子屋と私塾
      木村家の寺子屋
 丹生郡家久村の木村家は五代一五〇年余の長きにわたって寺子屋の師匠を勤めた(「系図先祖書」など 木村孫右衛門家文書)。「先祖書」からは四代目善通以下七代目までの当主が寺子屋教育に携わったことがしられ、履歴および師匠として携わった期間も明らかとなる。武生市本承寺境内にはそれぞれ四人の師匠の筆塚も残っている(表143)。
 四代の善通(儀右衛門)は貞享の半知以後、福井藩士に三〇年余仕えた後、村に帰り近隣の子供たちに手習を中心に教えた。師匠として教えること二〇年余、寛保三年に八一歳で亡くなった。五代周房は本保代官所の書役手代を勤め、元文元年(一七三六)役所の廃止を契機に村に帰り、寺子屋師匠を勤めること三〇余年、明和四年(一七六七)六四歳で亡くなった。六代周紹も越後・江戸・大坂で幕府の役人の書役などを勤めた後、父の死を契機に帰国し寺子屋師匠を勤めること三五年、享和二年(一八〇二)に亡くなった。七代周備も先祖と同じような道を歩み、天保六年に没するまで三〇年余にわたって手跡指南を勤めた。八代周応の履歴はよくわからないが、他の史料から同じように教育に携わっていたことがしられる。
 四代・五代については門人帳が残っている。四代善通時代のものとして享保四年(一七一九)の「手跡并諷弟子帳」がある。手跡の門人は七五人、謡が一六人、読みが二三人の合計一一四人である。ただし村内の岩松と三平が手跡と読みの両方を学んでいるので実質は一一二人である。門弟は枝村も含めて二七か村に及んでいる。人数的には家久村が最も多く一八人で、枝村の柳原・井辺などを合わせると全体の三分の一をこえる。この段階では比較的近辺の村からの通学者が多い。年は不詳であるが、町村名から五代周房の代のものと思われる門弟帳が一冊ある。「惣〆三百拾六人」とあるが、表紙と二枚分の紙面が欠落しているため実際は二八九人が列記されている。人名の上に村名が記されており枝村も合わせると四七村に及ぶ。通学圏は半径三キロメートル内にほぼおさまっているが(図25)、南条郡白崎村、丹生郡八田新保村など通学距離が一〇キロメートルをこえる村もある。今立郡坂下村からの門弟はおそらく寄宿していたものと思われる。村で多いのは瓜生村・本保村で、家久村の枝村の柳原、次いで家久村がこれに続く。兄弟が入学しているのは一〇例余、女性の門弟は一人である。
図25 寺子屋(家久村木村家)の通学圏

図25 寺子屋(家久村木村家)の通学圏

 当家に残る手習いの反故紙を和綴にした書物をほぐして整理してみたところ、次のようなことが判明した。まとまったものとしては木村元助の手になるもの三十数枚、木村半蔵のものが十数枚あり、両者は木村の姓からして一族の者であろう。とくに元助の手習は延享二年から三年にかけて書かれたもので、周房の代のものであることがわかる。それらによれば、例えば「己の心得正しかりつると可知乍去門前成市事」などの文字が、一枚の紙に断続して五日間にわたって書かれ、それぞれ師匠のものと思われる朱が入っている。紙には初日から五日までの日付が書かれていて、同じ文例をほぼ一月あとに繰り返している。これは木村家の寺子屋の教育システムや教授法の一端を示すもので、興味深いものとなっている。



目次へ  前ページへ  次ページへ