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 第五章 教育と地方文化
   第一節 藩校と庶民教育
    三 寺子屋と私塾
      寺子屋の発達
 『拾椎雑話』によれば、若狭では十七世紀初めの寛永(一六二四〜四四)から正保(一六四四〜四八)の頃に高成寺敬之という博識の和尚が、諸士の子・医師の子に素読を授けたとあり、また西津通りの薬種屋清兵衛も子供に文字を教えたとある。同じ『拾椎雑話』の「寛永十七年家職分ケ」に手習子取が二人とあり、天和二年(一六八二)には五人に増えている。これらの資料からもうかがえるように、寺子屋は寛永期に早くもみられ時代とともに増加していった。
 『日本教育史資料』には丸岡藩と小浜藩の私塾と寺子屋の設置状況についての記載がある。丸岡藩には寺子屋の記載はなく城下に私塾六校がみられる。そのうち一校に女子が在学し、規模は一〇〇人内外、教師は武士のみで延べ人数は三一人である。小浜藩領には一七校みられ、男子のみと男女共学が半々となっている。規模は丸岡藩と比べやや小さく、とくに男子のみの塾は一〇人内外である。教師は武士・平民・僧侶とあり、女教師が平民に七人、武士の妻女に一人みられ、延べ人数は二八人となっている。寺子屋は小浜藩に三一校みられる。男女共学は全体の三分の一、規模は八〇人が最高でほとんどが五〇人内外である。教師陣は塾と大差がなく僧侶が圧倒的に多く八割を占め、女性教師は一人である。設立年代は幕末期が大半を占めている。
 地域的広がりをみるために『福井県教育百年史』やその他の資料も利用して、福井県全体についてみてみよう。表142は塾も含めた寺子屋数を郡単位で集計したもので、おおまかな設立状況をとらえることができ、九割以上は幕末期にその成立をみている。

表142 時期別・国郡別の寺子屋・塾数

表142 時期別・国郡別の寺子屋・塾数




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