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 第四章 飢饉と一揆
   第三節 化政・天保期の一揆
     四 小浜藩領の村方騒動と小浜の百姓一揆
      庄屋・大高持・地主への不満
 右の例は村内で制度的に頭百姓と位置づけられていた大高持の場合であるが、そうでない場合でも、大高持は村役人を勤めることが多く地主を兼ねる場合が多かった。中にはその権威をふりかざして小百姓や小作人と対立することもあった。
 まず、庄屋の罷免や庄屋給に関する争論をあげよう。庄屋の罷免を求めた例には、大飯郡三松村と遠敷郡太良庄村がある。三松村では、庄屋の横暴や算用違いから文化三年十一月に、六九人の百姓が庄屋の交替を要求した(一瀬重左衛門家文書)。ちなみに同四年頃の同村の家数は一一七軒であるので、要求したのは高持百姓だけであると思われる。結果は不明であるが、同六年には二人の庄屋のうち一人が代わっている。
 太良庄村では、文化十三年二月に争論が起こった。同村では、安永(一七七二〜八一)年中に倹約の定書を取り極めたが、当時の庄屋二人ともが守らないため、庄屋二人の退役を組頭と大百姓・中百姓・小百姓全員が要求した(高鳥半右衛門家文書)。同十二年六月と十三年十二月の史料にみえる庄屋は二人とも違うので(高鳥居稔家文書)、この要求は認められたものと思われる。
 庄屋給にからむ争論には、文化十一年九月の大飯郡上鎌倉村の例がある。同村では、村役引高として従来一八、九石認められていたが、小高の者が一〇石にせよと要求したのである。これに対して三人の庄屋たちは、それでは役を勤めることはできないとして、退役の願書を提出した。年未詳の寅六月五日の郷方手代中から上鎌倉村組頭中宛の達しには、「まだ庄屋が決まっていないので入札せよ」とあり、この争論と関係があるとすれば、同村では庄屋不在の状態が四年ほど続いたことになる。なお、この時の入札の方法は、記名投票で、庄屋にしたい者の名前と自分の名前を書き押印し、しっかり封をしたうえ、その封じ目にも押印して組頭中へ持参し、組頭は一両日中に役所へ届けるというものであった(井ノ元道雄家文書)。
 次に、大高持の横暴・不当などによって起こった争論を紹介する。大飯郡三松村では文政二年に、郷蔵に隣り合っている大高持の屋敷の稲木や生け垣が小百姓たちによって伐採され、小屋が取り壊されるという事件が起きている。これは、この大高持により父が組頭をやめさせられたと思い込んだ百姓が扇動して起こした事件であるが、若者組がこの大高持の子供を組はずしにするなど、村内にはそれに同調する者が多かったことを示している(一瀬重左衛門家文書)。また、遠敷郡五十谷村では文政五年三月に、以前に庄屋を勤めたこともある者を含む大高持三人の不正、不当を当時の庄屋を含む村民が訴えている(「酒井家編年史料稿本」)。同様の争論は、天保九年五月に遠敷郡大谷村でも起こっている(木下重博家文書)。
 地主・小作関係にからんだ争論としては、文政九年五月の大飯郡小和田村の例がある。同村の大高持に対し、村役人を除いた全村民二四軒が三五俵の借米を要求したが拒否されたため、村民はその家の請作をしないという行動に出ている(畠中左近家文書)。同郡上下村でも、嘉永三年(一八五〇)正月に庄屋を勤める大高持への不満から騒動が起こり、五月二十四日夜には同家の小作人を含む村中七〇人ばかりが庄屋の家に押しかけるという騒ぎがあった(村松喜太夫家文書)。



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