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 第四章 飢饉と一揆
   第三節 化政・天保期の一揆
     二 文化・文政期の百姓一揆
      勝山の奥山騒動
 勝山城下の東、法恩寺山西斜面からその麓にいたる一帯は奥山とよばれ、中世には白山信仰の越前側拠点である平泉寺の支配する所であった。ところが、近世に入ってこの地は勝山町や周辺村々に分割された。人々はここで薪の伐採や炭焼きを行い、草・萱を刈って田地の肥料にあてたりしていた。勝山藩は表137のように奥山に山手米を課したが、勝山町は入山規定を設け、山札の購入者に山の利用を認め、その収入を山手の納入に充てた。

表137 奥山山手役

表137 奥山山手役

 奥山騒動が最初に起こったのは寛政八年のことである。原因は同年勝山町が町内の木屋と牛首村の者に、奥山のうち大杉沢の杉木伐採権を一一両で五年間認め、三月頃から二、三十人の杣・木挽が入り作業を始めたことにあった。降雨続きで六月一日頃から奥山から流れる浄土寺川があふれ、周辺村々の田畑のみならず、城下袋田町から長淵町まで水がつくようになった。そのため、斧を入れたことのない大杉沢の材木を伐採したためだという評判がたち、十五日には「蓑虫之如」く町・在の者大勢が沢町浄願寺門前に集まった。別に大杉沢へも向かっている者がいる模様で、夕方には町の材木関係者を打毀すという噂である。
 驚いた藩はただちに町年寄と山番各三人、それに木屋など伐採に関係した町方四人の計一〇人を遠慮、あるいは戸締め処分とした。大杉沢には猿倉村・浄土寺村、および直接水害には関係ないはずの畔川村・片瀬村の百姓たちが篭っているという話であったが、町から人足が駆けつけてみると、すでに木挽小屋や板類に火をかけ、立ち去った後であった。翌十六日、藩の指示で残りの小屋・材木等すべてが焼き払われた。すると翌十七日からは快晴となったという(比良野八郎右ヱ門家文書)。
 これ以後、奥山の材木伐採と天候不順にからみ、何度も騒ぎが発生した。とくに大きかったのは文化八年の勝山町打毀しで、文政八年(一八二五)の場合は未発に終わったものの、勝山町から西、九頭竜川下流方面で大きな噂となり、勝山藩を初め各藩が厳戒体制をとった。後述する文政十一年の勝山一揆もこれに触発されたものであった。



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