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 第四章 飢饉と一揆
   第二節 宝暦・天明期の一揆
    六 小浜・敦賀の打毀し
      天明の小浜の打毀し
 天明の飢饉は、小浜藩領にも深刻な影響を与え、天明三年には小浜で、翌四年には敦賀で打毀しが起こっている。まず、小浜の打毀しを『小浜市史』通史編上巻に依拠しながらみていこう。
 小浜における天明二年暮の米価は、同年七月の大風による凶作の影響で高値となり、さらに大津米価が高値であったことにも刺激され、いっそう高騰の様相を示し始めていた。このような中で百姓たちは、年貢米を確保するために小浜の米商人に米の有無を尋ねたところ、彼等は偽って米はないと答えた。そうとは知らない百姓たちは、時の相場で年貢米の銀納を藩に願い出た。藩は年貢収納に関与していた「手通」の商人たちに米の有無を尋ねたところ、五〇〇〇俵あると答えたため百姓の銀納願は却下された。ところが、銀納願人の一人であった五十谷村の助之丞という者が、小浜の町人滝八治郎から米四〇俵を相場より高値で買い取り、年貢米を確保してしまった。このことに対し百姓たちは、助之丞と滝八治郎を責め、八治郎から合銀を出させることでなんとか収まった。滝八治郎の他にも、小物屋次兵衛と白木屋七兵衛、西津の糸屋喜兵衛は、「手通」と結んで国中の米相場を狂わせていると百姓から目されていた。
 翌天明三年正月に入る頃から、国中の百姓が小物屋次兵衛等の米商人を打毀さんとしている風聞がしきりとなった。こうした中、正月十六日の昼時、遠敷郡根来谷・松永谷・遠敷谷諸方の口々より数百人の百姓が繰り出し、まず平野村太左衛門のところへ押し寄せた。人足を出すよう要求された太左衛門は、「一揆は天下一統の御制禁」と百姓たちをたしなめたが、百姓の勢いに恐れをなして人足を出し、自らも同道を余儀なくされた。次に一揆は、遠敷村の孫次郎方へ押し寄せ、同様の要求をつきつけた。孫次郎は要求を拒否したため、またたくまに打毀されてしまった。一揆が撞いた遠敷上下宮・国分寺・神宮寺の鐘を聞いて、さらに多くの百姓が集まり、一揆は小浜町へ向かった。藩側の役人も一揆発生の注進を受けて出張し、両者は木崎の鼻で出会った。そこで下中郡奉行江口治部介は一揆側と交渉し、願い事を取り次ぐと約束をした。一揆はその場を引き下がり、その夜は遠敷山・野木山または愛宕山に大篝火を焼き結集した。
 十八日夜、とうとう小浜町に打毀しが起こった。名田庄の一揆五、六十人ばかりが清水町の門を押し開き、小物屋次兵衛宅に押し寄せ、打毀したのである。知らせを聞いた町年寄木崎藤兵衛と吹田伝右衛門は、町中に提灯をともすこと、町人たちが見物に出ることの禁止を命じた。注進を受けた町奉行池田仁太夫は、小物屋次兵衛宅に残っていた百姓五人を召し捕り、大津町の牢に入れた。残る一揆勢は和泉町の滝八治郎方を目指したが、先に咎をうけ戸を閉めていたので打毀すことができず、片原町の白木屋七兵衛宅に向かった。しかし、小家ゆえ見出せず、鵜羽小路の吹田伝右衛門・吹田孫右衛門、永三小路の樽屋孫兵衛宅へ踏み込み、酒飯を出させた。藩の役人は、小浜の四方を固めた上で、下中郡の郡奉行・代官が一揆の百姓を招き、引き取るように命じた。一揆側は、郡奉行に対し、年貢米を取り仕切る「手通」の廃止、無利息での拝借米の貸付け、そして牢舎の五人の引渡しを求め、それらの要求が入れられた後引き取った。
 正月二十一日、小物屋次兵衛・滝八治郎・白木屋七兵衛が会所へ呼び出され、白木屋は戸〆、小物屋と滝は菱垣の処罰を受けた。また、西津の糸屋喜兵衛も戸〆を命じられている。一方、名田庄の村々は蔵米二〇〇〇俵の拝借を願い許可された。また四郡の村々も四〇〇〇俵、敦賀郡・新御領(越前今立・南条郡の小浜藩領)の村々も一〇〇〇俵の拝借米を勝ち取った。
 しかし、三か月後の四月十六日、一揆の張本人の詮議がなされ、忠野村の孫左衛門・助十郎の二人が搦め捕られ、湯岡村芝原で獄門にかけられ、首が三日間晒された。また、同日小物屋次兵衛・滝八治郎の二人に国払いが命じられた。



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