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 第四章 飢饉と一揆
   第二節 宝暦・天明期の一揆
     四 明和五年越前一揆
      一揆起こる
 明和五年三月二十一日、福井城下に不穏な動きがあって騒がしく、翌二十二日、町組頭新屋兵左衛門支配下の町人一〇〇人ばかりが困窮を訴えて安養寺へ集まり、その後兵左衛門および町組頭丸屋九左衛門方へ救米願にやってきた。昼時には町組頭二文字屋惣左衛門と久々津又右衛門組下の町人二〇〇人ほどが大橋下へ集まり、そこから惣左衛門・又右衛門方へ押しかけ、同じように救米を求めた。町組頭赤尾助右衛門組下の町人たちも同じ行動に出た(「家譜」)。時を合わせたように、城下あちこちで町組頭へ救米を要求する騒ぎが起こったのである。
 このようなことが次の日も続いた。しかも二十四日・二十五日には「古ミの(蓑)・破レ笠」姿に、四、五尺ほどの竹杖を持った在方の百姓たちが加わり、口々に「ひたるいひたるい、賄くれ」と叫びながら、藩御用達で札所元締を勤める美濃屋や極印屋等へ食事を強要し、古鍬・古鋤などの農具を質にとってくれと迫った(木屋藤右衛門家文書)。城下が騒然となる中、二十五日には極印屋と美濃屋が打毀され、それも日を追ってエスカレートした。二十六日には牢が破られ、二十八日には家老酒井外記の門前にまで現れた。中老嶋田清左衛門・目付太田三郎兵衛・侍格水野三右衛門を「打砕」けとののしったともいう。この日打毀された大工頭の藤間又三郎は藩の給人で升を管轄しており、同じく大工頭の寺木十右衛門の家を壊す噂も飛んでいた(『国事叢記』)。二十九日がピークで、越前各地から百姓が押し寄せて、特権的商人宅等を打毀し、あるいは藩役人を激しく批判した。さらに作食米願や定免制反対、升の不正など、藩へ二十余項目の要求をつきつけた。騒動は地方へも波及し、在方でも打毀しが起こった。城下の騒ぎが鎮まったのは四月一日、同五日の坂井郡吉崎を最後にようやく落ち着いたのであった。
 城下に限れば九日間、在方まで入れると一三日間にわたり騒動が続いたことになる。その期間といい、大規模な打毀しといい、越前では前代未聞の激しい民衆の行動であった。『片聾記』によると、二十六日二〇〇〇人、二十七日三〇〇〇人、二十八日六、七千人、ピークの二十九日には二万人が福井町へ押し寄せた。城下以外にも松岡・丹生郡入村・今立郡小黒町村で打毀しがあり、府中・金津でも「狼藉」があったという。後述のように今立郡五箇地方でも騒がしかった。
写真97 「北国侍要太平記」(部分)

写真97 「北国侍要太平記」(部分)

 この一揆は事前にある程度の準備が行われていた。二十五日の極印屋・美濃屋打毀しにおいて、拍子木の合図で一斉に進退しており、盗みや酒の飲み過ぎもなかった。打毀した後は一五、六人が残って火の元を点検し引き揚げている(『国事叢記』)。この一揆を題材とした「北国侍要太平記」(名古屋市蓬左文庫)によれば、百姓たちは郡ごとに大庄屋を中心に組織され、火の用心や窃盗・殺人の禁止、行動時の鉦打ちによる進退など五つの掟を事前に定めていたという。ただし、当時大庄屋は置かれておらず、この記述は信用できるものではない。だが、百姓一揆としての規律、参加者の多さなどから推して、この一揆が事前の準備と指導組織なしにはできない行動であったことは確かである。



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