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 第四章 飢饉と一揆
   第二節 宝暦・天明期の一揆
    一 前・中期の村方騒動
      庄屋の信任
 村によってしばしばみられるものに庄屋の交代制、中でも一年ごと順番に交代する回り庄屋制がある(『通史編3』第三章第一節)。前期から例があるが、これができた大きな理由は、庄屋職が一部の者に独占され、村政が混乱したり、小百姓に不利なことが行われるのを防止するためであった。
 元禄十三年(一七〇〇)、幕府領大野郡妙金島村の百姓九人が村の次右衛門等三人を代官所へ訴えた。同村の庄屋はこれまで一人であったのに、彼等三人が庄屋職を望んで二人制を主張し、一門小百姓を巻き込んで村を分断するような事態をもたらしたからだという。三人を我侭者で「一揆同然之者共」と批判するとともに、これを機会に庄屋職が一部の者に独占されないよう、今後は回り庄屋としたいとの願いも添えられていた。争論の結果は不明ながら、庄屋二人制は実現しなかったようである。ただし、同村では明和五年(一七六八)にも庄屋役をめぐって争い、庄屋・長百姓・惣代の村方三役とも村中で鬮を引き、今後五年間鬮に当たった者が順番に一年交代でそれぞれ勤めることになった(島田喜兵衛家文書)。
 一方、村内の勢力争いや諸役の割方、それに庄屋個人への不満などから村内が二分、三分され、それぞれに組を立て庄屋を設けることも起こった。勝山藩領大野郡蕨生村の場合、主に頭百姓の勢力争いから元禄期より天保(一八三〇〜四四)期まで何度も争われていることが判明する(『通史編3』第三章第一節)。もっとも、多くの場合、諸役の割方などが複雑にからんでいるのが普通である。勝山藩領柿ケ島村は元文元年(一七三六)九月、村の諸盛割方をめぐって大小の百姓が争った結果、人足郷盛を高割六分・家割四分、村盛銀は高割四分・家割六分の割方とするなど、五か条にわたって確認した済口証文を結んだ。その後これが踏襲されたが、宝暦八年(一七五八)八月、再び同様の問題から村内が二つに分かれ対立したため、藩奉行は今後の「村中和順」を条件に組分けを認めた。ところがその後、組と関係なく家別一人ずつ負担する用水普請人足をめぐり小高持から批判が出た。結局、藩の裁許となり、これは高割となった。やがて両組は解消されたが、明和七年八月、再び大組と小組の二つに分かれた。このとき小組では従来の割方が小百姓や雑家(水呑)に不利だからと新規の村盛定をつくっている(山川彦右衛門家文書 資7)。
 寛政七年(一七九五)二月、郡上藩領大野郡木本地頭村で取り決めた村定は、前年暮、小百姓方が郷盛・村盛等が近年過重となっているとして、庄屋を二人にしてほしいと要求したことが発端であった。村定の内容は六か条にわたるが、その中心は、郷盛銀と郷人足は高割、村盛銀と村人足は高七分・家三分の割合に改めるものであった。庄屋二人願は実現しなかったが高割を大きく取り入れることができたのである。当村の大高持百姓たちは、組分けによる村の分裂よりは盛を高割にする方がまだ得策と判断したのであろう。なお、この村定には小高持の内から組頭一人、惣代二人を出して庄屋の仕事に加わり、庄屋が独断的に村運営できないようにするとの一条が加えられた(小野田弥五太夫家文書)。
 小百姓の要求に応える庄屋を新しく立てようとすることも珍しくなかった。享和二年(一八〇二)三月、福井藩領南条郡大谷浦の百姓四六人中三六人が連判し、庄屋の交代を願い出た。現在の庄屋はすでに二年勤め、村算用が不明瞭で困窮者に不満が募ったからという(向山治郎右ヱ門家文書)。文政二年(一八一九)、同藩領足羽郡今市村で庄屋の入札を行ったところ、二〇石以上の高持から選ぶ村規定であるにもかかわらず、それ以下の者が当選し問題となった(片岡五郎兵衛家文書 資3)。同村は次節で述べるように小高持・無高による諸役割法等をめぐる村方騒動が激しく、庄屋に関しても自らの要求を明確に出すようになったのである。
 このように庄屋の選出・交代や組分け問題等に関する村方騒動は、多くの場合小百姓の負担軽減という経済的要求がからみ、彼等の村政への参加を促し、村の民主的運営を進める役割を果たしたのであった。



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