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 第四章 飢饉と一揆
   第一節 飢饉と災害
     四 災害とその対策
      消防
 小浜の消防について、「古格大概」(須田悦生家文書)からみてみよう。町方については、貞享元年(一六八四)の「小浜町奉行御条目十九ケ条之写」の中で、町人の火事番を定め、もし火事が起こった時には消火にあたるように申し付けている。この火事番は寛永十一年(一六三四)の「小浜町条々」(「酒井忠勝書下」)にもみることができ、この時期は火事番が町中の火の用心を担当していたようである。
 寛文十一年(一六七一)には出火時の町々の火消人数が決められ、町中役火消の者へ火消札が渡された。出火の時には他町の火消も集まった。貞享元年に火消人数が改められ、四七町に合わせて四一三人の火消が設けられた。元文元年には町火消は五組に分けられ、寛延元年(一七四八)には町々の火消人数の中から火元へいち早く駆け付ける急火消七二人が編成された。寛政十二年には町火消を再編し、東元組・東水組・中元組・兜組・西元組・碇組の六組が作られた。
 武士においても火消当番が定められており、天和二年の「火事之時定」(「惟馨厳秘抄」)によると、火事が起こった場合、火消当番は百間橋の内で待機し町奉行の指示で火元へ出向くことになっている。
 当時の消防用具はどのようなものであったのだろうか。寛文十一年の町火消役の定書に、火事場へ出る男女老若は水を持ち寄ること、火消の者は各町に備えてある熊手・箒・円座を一本ずつ持ち寄り、大工・木挽・桶屋等は大鋸を持ち出すことが決められた。また、火消道具として綱四番・かけや四丁・熊手三本・竹梯子六丁・水篭三五が町会所に置かれていた。元文元年には火消以外の老人や女は水篭を持ち集まり、「水之手」の場所で水汲みをするようになっていた。同二年には井戸がある者には釣瓶を余計に準備しておくように、また「水之手」を勤めるものには釣瓶があれば水篭の代わりに持ち出すように申し渡している。このほか、天水を入念に溜めて置くことも申し渡している。初期消火には水篭や手桶の水は効果を発揮したであろうが、これだけでは不十分であり、かけや・熊手・大鋸などで家を壊して延焼をくい止めた。
写真90 竜吐水

写真90 竜吐水

 天明二年小浜の古河屋は、竜吐水と飛水銃各一挺を大坂で購入し、火消組へ売り渡している(古河家文書)。竜吐水はポンプ式の放水具であるが、消火能力は大きくなく、屋根に水をかけ延焼を防ぐ程度であった。大野町では、安永四年の大火で竜吐水二挺が焼失し、同年八月に竜吐水が藩から町へ与えられた(土井家文書)。勝山町では弘化二年には竜吐水二挺が配備されており、このほか階子一〇・家潰二・斧三挺・かけや三挺が防道具として町に預け置かれた(松屋文書)。



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