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 第四章 飢饉と一揆
   第一節 飢饉と災害
    三 天明・天保の飢饉
      天保飢饉録
 天保の飢饉は、天保四年(一八三三)から七年にかけての全国的飢饉をいう。天保初年から続いた天候不順、洪水などが主たる原因であり、越前・若狭においては例をみない大飢饉であった。「天保飢饉録」(赤松太刀夫家文書)により越前の様子をみてみる。
 天保期の作況と米価の動きは次のようであった。天保元年は平年の六分作で、二年、三年は七分作であり、この両年の米一俵は銀三二、三匁だった。同四年は全国的に凶作となり、越前では五分作、米価は諸国の高騰の影響もあって四五、六匁となり、翌五年の夏には五二、三匁と上がった。五年は諸国豊作で、米価は十一月末には二五、六匁に落ちついていた。六年は八分作で、大凶作となる七年をむかえた。
 天保七年は、田植え後一〇日あまりは天気が続いたがそれ以後は雨が降り続き、五月下旬は寒い日が続いた。六月下旬からまた雨になり、七月は雨天勝ちの日が続いた。八月四日は二百二十日であったが稲穂は半分も出ず、各地で天気回復の祈外字が行われたが雨は降り続き、十三日夕方からの大風雨によって稲は大被害を受けた。九月九日秋の土用に入っても稲色は青く、半土用過ぎから刈取りを始めたところ早稲は五分、晩稲は三分位の作柄であった。五月に三五匁だった米価は、八月中頃には七〇匁、二十日頃から早稲米が出始めたため四五、六匁まで下がったが、九月に入ると再び上昇し十二月上旬には八〇匁となった。
 天保八年正月の餅は鏡餅のみで、一月の米価は八五匁、三月は一一〇匁、五月には一三五匁にもなった。五月下旬から米価は下がり始め、盆後には九〇匁になったが、売買の量は非常に少なくどこにも古米の蓄えは見当たらない状態であった。八月中旬には新米が出始め、売出し値段は七五匁、九月に入ると五二匁であった。この年は平年の八、九分作であった。
 米価の高騰のみならず大豆・小豆・麦・稗の値も上昇し、食物は乏しくなり、蕨や葛や苧の根・じゅうやく・ふき・蓬・よぼの葉などを山中に求め、飢えを凌ぐようになった。町・在方ともに粥をたき難渋人へ与えたが、多くの餓死人がでたという。
写真88 天保飢饉碑

写真88 天保飢饉碑




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