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 第四章 飢饉と一揆
   第一節 飢饉と災害
    三 天明・天保の飢饉
      天明三年
 天明(一七八一〜八九)年間は全国的に飢饉であった。天明二年奥羽地方の冷害による大凶作に始まり、同三年も冷害が続き、七月七日には浅間山が大噴火して、関東はもちろん甲信越から奥羽まで灰が降った。この噴火にともなう地響きは越前各地でも恐れをもって感じとられている。
 越前では天明二年が不作であり、福井藩は同二年十二月、三国湊の津留を行った。しかし、三国湊では同三年正月初めから米が高値となり、米不足により毎夜物乞いに出る者が増えたため、町役人が「白米売場」を設け、一匁に白米一升五合で払米を行った。その後も米価は高騰し、九月には米商人など三軒が打ち毀され、打毀しを免れた商人は飯や酒を提供したり、米の安売りを強要されたりした(大門区有文書)。勝山町でも同三年一月には「米之口留」がなされ、二月には当番の米屋に「御用白米小売所」の提札がかけられ、米相場より「一合安」で売られた(福井大学附属図書館文書)。
 天明三年は、夏土用前から雨天が続き、浅間山噴火の頃から空が曇り始め、秋の稲刈りの時期を過ぎても天気はよくならなかった(松田五郎兵衛家文書、山岸善四郎家文書)。九月中頃には「くるひ(クルミ)粒程の大あられ」が降り、「夏の土用之内ニ茂日中少シあつく御座候へ共、夜ハよき風(蒲)団なくて一向ふせり申事難成」い状態であった(梅田治右衛門家文書 資7)。このように、天明三年は雨天が多く快晴の日は少なく、土用中も袷を着用するほどの冷夏であり凶作となった。安永九年(一七九〇)から寛政元年(一七八九)までの七か村の年貢率(高免)の推移を表115に示したが、天明三年は野中村を除く七か村で年貢率が低くなっている。
 天明三年の様子を、福井城下の医師橘宗賢はその日記のなかで「当年ノ不作ニ付米穀ノ高直町在甚困窮、依是所々盗賊・誑偽者多、在々道路ニテ剥取往来者事多シ、近比ニ無之大凶年也」と述べている(「橘宗賢伝来年中日録」福井県立図書館文書)。
 天明六年も三年と同様に春の訪れは遅く、土用中も雨が降り続き、八、九月の大風雨は田畑の諸作物を直撃し、早稲・晩稲に大きな被害を与えた。表115の小浜藩領の村や野中村の年貢率が最低であり、その他の村の年貢率も天明三年に匹敵するくらいであることからも、この年の凶作の様子がうかがえよう。
 天明年間から寛政初年にかけては全国的な冷夏の中で、越前では表110に示したように天明三年・同六年・同七年・寛政元年・同三年など大雨洪水による被害も加わり不作が続いた。

表115 天明期の年貢率

表115 天明期の年貢率



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