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 第三章 商品の生産と流通
   第三節 日本海海運と越前・若狭
    三 商品流通の新展開と越前・若狭
      松前・蝦夷地の経済変化と蝦夷地産物
 敦賀湊を代表する商人高嶋屋久兵衛徳和は、享和元年(一八〇一)に齢七〇を迎えて遺書をしたためた中で、若い頃の状況を次のように述懐した。「名跡を継いだ当時は、津軽辺りからの美濃茶や紙類などの注文があったほか、松前江差に客場があって、鯡荷所荷物などが登って来る問屋の商売であった」と。しかし、彼はそれに続けて「段々客場盛衰も御座候」と語っており、危機を感じた徳和は高嶋屋の家名相続のため田地を購入し問屋業の廃止も考えたという(高嶋屋文書)。この客場とは近江商人のことを示し、蝦夷地で異変が生じていることをうかがわせている。
図14 近江八幡の松前屋仲間鰊荷所積出高(1712〜76年)

図14 近江八幡の松前屋仲間鰊荷所積出高(1712〜76年)


図15 敦賀湊天屋扱い荷所船廻送鰊高(1727〜87年)

図15 敦賀湊天屋扱い荷所船廻送鰊高(1727〜87年)

 宝暦(一七五一〜六四)期に入ると、蝦夷地では栖原家や伊達家など近江商人以外の新興商人が豊富な資金力を背景に蝦夷地北部へ進出し、アイヌ漁民を酷使した漁場経営を強力に推進した。一方、蝦夷地南部の近江商人の場所請負地では鰊漁が不振となり、これまで隆盛を誇った近江商人両浜組の構成員は半減したという。図14は近江八幡で松前組を構成する商人の積荷高、図15は敦賀湊の天屋が取り扱った近江八幡と薩摩の近江商人の鰊荷所の量の推移を示したものであるが、いずれも宝暦期後半から明和(一七六四〜七二)期にかけてその量が減少し始め、天明(一七八一〜八九)期に入り激減している(西川伝右衛門家文書)。
 しかしながら、敦賀湊へ入津した諸荷物の量は、宝暦十年と天明八年とで比較すると表105のようになる。米が半減したのと比べて松前物、とくに鰊の減少率は約二割程度にとどまり、図14や図15で激減する推移とは異なる動きを見せる。これは松前物に対する近江商人の集荷力低下と流通の担い手からの脱落を示すものにほかならない(石井左近家文書 資8)。敦賀湊でも、従来の買問屋(仲買商人)以外に新問屋が多くできたほか、素人までもが買置きするため、近江では鰊肥料の高騰を招いたという(苗村家文書)。蝦夷地における変動は、敦賀湊でも流通の担い手の交代として表れたのであった。
 一方、西廻海運の発着点である大坂では、畿内先進地における商業的農業の展開に加え全国的な金肥の需要増から干鰯の不足を招き、この代替品として鰊が注目された。明和七年には大坂の干鰯問屋和泉屋勘兵衛から鰊相場の情報が発信されるほど大坂市場へ鰊が流入しており、天明年間に著された『東遊記』でも「此鯡、むかしは北国のみにて用ひけるよし、今は北国はいふに及ばず、若狭、近江より五畿内、西国筋は不残田畠の養となる」もので、干鰯より効果が高いと評している。
 すなわち、その普及範囲も西廻海運の沿岸各地にまで達しており、従来は敦賀湊や小浜湊を海路の終点としていた鰊肥料が、西廻海運を経て上方・瀬戸内方面にまで販路を広げた様子がうかがえる。

表105 敦賀湊着津諸荷物の比較

表105 敦賀湊着津諸荷物の比較



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