蚕を飼い繭をとって真綿や生糸を生産する仕事は、農山村では一般に古くから行われていたもので、とくに記録に残すことも少なかったようだ。木綿が人々の衣料として普及し始める近世中期までは、真綿は麻とともに衣料の基本的な素材であったが、その生産の実態は充分には解明されていない。現存するわずかな史料からその一端をうかがってみよう。
大野郡では、慶長三年六呂師村の百姓が一か所の山作職を米一石と綿八〇匁で河合村の百姓に売り渡しているが、これは綿が米と同じく貨幣的価値のあるものであったからであろう(斎藤甚右衛門家文書 資7)。谷・六呂師・中尾・横倉・中野俣・小原・河合・木根橋・杉山の九か村は、慶長八年に夫銀五二一匁四分のほかに夫綿として綿三貫六五〇匁を福井藩に納めており、このうち河合村は、慶長十六年・同十九年・元和七年(一六二一)に下々綿一九〇匁を小物成の夫綿として夏中に福井藩に納めている(同前)。皿谷村は、夏の小物成として寛永七年(一六三〇)に綿七三七匁を大野藩に納めている(松浦平六家文書 資7)。
今立郡では、大滝・岩本・不老・定友・新在家・南小山・杉尾・島・轟井の九か村が、従来夏成として下々綿を一〇〇匁から六〇〇匁まで合わせて三貫六〇〇匁納めていたが、元和元年には下々綿一〇〇匁を米二斗四升に換算して物成米八石六斗四升を納めている(大滝神社文書 資6)。
丹生郡では、樫津村が明暦三年(一六五七)に夏成下々綿として七二〇匁を福井藩に納め(田中甚助家文書 資5)、また下河原村が元禄六年(一六九三)・同十年にそれぞれ綿一八五匁四分を西鯖江幕府代官所に納めている(友広支己家文書 資5)。貞享二年の樫津村の「田中甚助書置」によると「畑には茶・桑・楮・漆・木の実を念入りに作れ、こかい(蚕飼)を大規模に行えば身代が擦り切れることがあるのでほどほどにするよう心得よ」と堅実な養蚕経営をするよう子孫に書き残している(田中甚助家文書 資5)。
福井藩は、寛文二年(一六六二)に糸綿を他国他領に売らず、福井の者に売るよう法度を出している(上田重兵衛家文書 資7)。同藩は買い上げたり上納させた真綿を進物用としても使った。『国事叢記』からその例をあげてみよう。慶長十九年松平忠直が久世騒動の後将軍家にお礼の際、白銀二〇〇〇枚とともに綿三〇〇把を献上しており、忠昌が将軍家光に供奉して寛永十一年に上洛した時、禁中に米二七〇〇俵と綿一二〇〇把を献上し、光通が家督相続の礼として、正保二年(一六四五)に家光とその子家綱にそれぞれ綿五〇〇把を上納している。光通は承応三年(一六五四)・寛文二年の江戸参勤の際にも綿五〇〇把を献上している。なお、『国事叢記』寛文八年の項に越前産物としてあげられている三五品種の中に繊維製品は五種しかみえないが、撰糸・絹糸・布類・苧とならんで真綿が記されている。 |