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 第三章 商品の生産と流通
   第二節 鉱工業の進展
    四 木地師と漆
      木地師とその支配
 木地師とは、山地に自生するトチ・ケヤキ・ミズメ・ブナ・ヒノキなどの木材を、鑿・鉋・銓などで加工して、椀・膳・盆・杯・杓子・玩具・農具などの日用木器具をつくる人たちのことで、轆轤を使うので轆轤師とも呼ばれた。木地師は素材を求めて山地を移住することが多く、その活動には伝承的な面が多い。近世越前・若狭において木地師が活動した主な地域としては、大野郡、坂井郡東部山地、越知山を中心とした丹生郡山地、今立郡から南条郡にかけての山地、遠敷郡上根来から名田庄にかけての山地である(『通史編2』第五章第一節など)。
 ところで、中世末から近世初期にかけて、近江の蛭谷筒井と君ケ畑の二地域の木地師たちが、近江愛知郡小椋荘に住んだという藤原実秀を伝承上の始祖とする根元社(筒井正八幡宮・大皇大明神)を作り、全国の木地師を支配しようとする動きが起こった。彼等は全国の木地師の村を廻って、保護と指導をしながら、根元社への初穂料、烏帽子着料などを集めた。これを氏子狩(氏子駈)と呼んだ。このうち蛭谷筒井の正保四年(一六四七)から明治初年にかけての数十冊の氏子狩帳には、越前に八回、若狭に一七回の、君ケ畑氏子狩帳には越前に二回の廻国の記録がみえる(表96・表97)。

表96 氏子狩帳による越前の木地師

表96 氏子狩帳による越前の木地師


表97 蛭谷筒井氏子狩帳による若狭の木地師

表97 蛭谷筒井氏子狩帳による若狭の木地師

 木地師の由緒や支配などを記したいわゆる木地屋文書には、大野郡の小沢村に居住していた小椋幸男家、同郡川合村の平野治右衛門家、今立郡大本村の山本仁輔家・田中作右衛門家の各家文書や、南条郡大河内の区有文書などがある。古代・中世の綸旨・宸翰・特権由来書の写と称するものには疑わしいものもあるが、筒井公文所に与えた天正十一年(一五八三)の丹羽長秀の諸役免許状写、同十五年の増田長盛の安堵状写(大河内区有文書 資6)は、筒井公文所に伝えられた越前関係文書の写である。なお小椋幸男家には、文化十年(一八一三)から明治五年(一八七二)にかけての木製の「筒井社」氏子札五枚、筒井公文所発行の天保十四年(一八四三)の往来手形、弘化四年(一八四七)の宗門手形が残っている(小椋幸男家文書 資7)。
 また、足羽郡木田の長慶寺は、今立郡池田、南条郡今庄、加賀山中などの木地師集団を門徒に持ち、また、今立郡蓑脇村の善照寺は鞍谷轆轤師の信仰を集めた寺といわれている。



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