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 第三章 商品の生産と流通
   第二節 鉱工業の進展
     三 打刃物と鋳物
      今立郡五分市の鋳物師
 『越前国名蹟考』に「五分一(市)村 四条帝より綸旨頂戴して邑半は鋳物師を産業とす」とある。これによれば、十三世紀半ば頃には、五分市村人の半数が鋳物師業に従事していたことになる。五分市村は越前国府(府中)から約一・五キロメートルと近距離にあり、鋳物の細工所・調進所として原料や燃料の入手、舟運の便などの立地条件のよいことから、古くからの鋳物の生産地の一つと推定されている。
 五分市鋳物師作と確認できる最古の作品は、永禄十一年(一五六八)の梵鐘である。これには「大工鞍谷長屋村住人藤原朝臣三郎兵衛尉作」とある。五分市村は中世には長屋村とも呼ばれていたようである。また、天正十三年の銘のある白山本地仏には「大工 五分一之住人藤原左衛門尉吉次・和泉守家政八郎左衛門」と記されていた(『越前若狭古文書選』『越前及若狭地方の史蹟』など)。
 近世五分市鋳物師の主流と言われる松村家は、南北朝期に河内丹南郡狭山郷日置荘から今立郡上真柄村に住みやがて近くの五分市村に移ったと伝えており、正保(一六四四〜四八)年間に藤原姓から松村姓に変わったという(「松村家譜録」)。
 五分市の鋳物業は近世を通して行われたが、長年の間一貫して継続されたのではない。仕事がなくなれば操業を中止し、需要があれば吹屋を再興してそれに応じたのである。寛文四年頃はここでの梵鐘の鋳造は盛んでなかったらしく、府中正覚寺の梵鐘は上方より鋳物師を呼んで鋳造されたとされている(伊藤久兵衛家文書、「伊藤久兵衛記録」『越前文化』六号)。実際、松岡の渡辺家や志比境村の清水家の記録には、今立郡や府中の寺の鐘を多く鋳造したことが記されている。近世中期以降は鍋・釜・鉄瓶などを主に鋳造し、とくに五分市鍋と呼ばれた比較的尻の重い鍋が有名であった。
 明和三年には五分市鋳物師の吹屋を再興することになり、一〇人の村人が招組仲間を結成して、家・水屋・土蔵を質物にして銀二貫匁を粟田部村・岩本村の銀主三人に借りることを約束している(木津群平家文書)。この文書には松村家の名がなく、招組だけで再興資金を工面したのであろうか。文化十三年に鋳物師総代七人が取極め証文を作って、今まで松村家に伝えられていた綸旨と諸書物を、今後は鋳物師筋目の人々と差別なく一体となって守護し、京都へ納める冥加銀も七人が出すこととした。松村家が持っていた権利を鋳物師一同が持つことになったのであろう(弘願寺文書、「五分市鋳物師関係史料(二)」『越前文化』四号)。
 天保元年に府中の町に立てられた金灯篭の銘に、五分市の松村次右衛門と越中高岡の喜多万右衛門二人の鋳物師名がある。次右衛門が高岡鋳物師の技術を借りて鋳造したのであろうか(武生市立図書館文書)。嘉永六年松村次右衛門は禁裏へ年頭の灯篭を献上している(佐々木功家文書)。文久元年には松村善太夫・松村左左衛門が稼業していたが(「由緒鋳物師人名録」)、明治初期に次第に衰微した。



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