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 第三章 商品の生産と流通
   第一節 都市構造の変化
    二 城下町の変貌
      宿屋と湯屋
 表76は大野町の宿屋に宿泊した旅人数を示したものである。人口約六〇〇〇人の大野町に、雪のある十一月から二月を除くと、多い月には一二一九人が宿泊している。七月の数が不明であるが天保十四年の残る一二か月の宿泊者数は九二五七人、月平均七七一人である。弘化元年は三、五、七、九の四か月だけで三六六七人、月平均九一六人に達している。これらを宿泊させた宿屋は文化十二年には一九軒あったが、廃業したり新規に開業したりするものも多く、数は一定していなかった。
 旅人の多くは商人や見物あるいは寺社参詣の者であったが、中には藩にとって好ましくない旅芸人や酌取女のような者もいた。そのため、藩は宿屋に対して旅人を吟味して宿泊させること、宿泊は一夜限りとし二夜以上にわたる時は願書を提出させること、旅人帳を毎月一日に差し出すこと、また、各町に対しては宿屋以外には旅人を宿泊させてはならないことなどを何度も触れている。旅人帳の提出は徹底しなかったようで、天保八年十月には改めて厳しく申し渡している。しかし、なかなか守られないため翌年九月には、毎夜宿屋を改めて廻る旅人改役が新設された。改役には毎夜宿屋を吟味させるだけでなく、毎月一日に旅人改帳を提出させた。表76はその提出記録のうち人数が記されていたものから作成したものである。弘化四年の用留からは、提出した旅人改帳は毎月一七冊であったことがわかる。おそらく一軒の宿屋について一冊ずつ提出したものと思われる。旅人改役には、筆墨料として宿泊者一人に対し二銭の割合で宿屋から出させたほか、天保十二年から米二俵分の銀が年末に藩から渡された。
 小浜においては、天和元年に宿屋を七軒に限り、一夜泊まりの旅人や巡礼者はこれ以外に泊めてはいけないと定められたが、なかなか守られなかったようであり、寛延二年(一七四九)六月や幕末の安政四年(一八五七)正月にも同様の触が出ている。また、世情が騒々しくなった万延元年(一八六〇)三月には、宿泊する旅人の住所・姓名を大津町の番所に毎日届け出ることが定められた(野瀬仁左衛門家文書)。

表76 大野町の旅人宿泊数

表76 大野町の旅人宿泊数
 別の意味で規制されたものに、湯屋(洗湯・風呂屋)がある。湯屋は、寛政九年十二月六日に二番下町の文治郎が風呂屋商売をしたいという願書を差し出した時の文言に、「御当地ニ而者珍商売ニ有之」とあるので、大野ではこの頃が湯屋の始まりと考えられる。当時は、安永九年・寛政元年の大火の後で風呂桶等を所持する者も少なく末々の者のためにもなるということで、文治郎の願いは聞き届けられた。ただし、「火の用心」「朝六ツ時から夜は四ツ時限りに仕舞べきこと」「喧嘩口論等をさせないこと、また、酒食の取扱いはしないこと」「失物等がないよう入念に取扱うべきこと」「見知らない者が来た時には入湯させないこと」という定めとともに、男女を区別することが申し渡された。男女を別にすることは、昼七ツ時に仕舞うこととともに同月三十日にも申し渡されており、また、同十一年二月十一日にも申し渡されている。
 湯屋は営業中ずっと火を使うため、先の寛政九年の定めにもあるように、火の用心についてはとくに注意が払われた。文化十二年三月に、五番町の喜兵衛が廃業した跡を受けて三番町の庄八が湯屋の開業を願い出た時には、近家には差支えがないかどうか、火の用心は大丈夫かということを、四月六日に町年寄が見分し、六月二十一日には風呂場等が完成してから再度願い出るようにと申し渡している。八月二十六日に完成した後、藩は風呂場と他の建物とがどれだけ離れているか、竈はどの方角を向いているかを庄屋に見分させ、開業が許可された。また、文久元年(一八六一)の記録からは、草葺きの家での営業は認められず、板家に建替えなければならなかったことがわかる。
 湯屋が商売仲間になったのは天保五年八月のことである。当時、風呂屋を営んでいた六軒から、以後風呂屋は六軒だけに限り、薬湯など紛らわしい商売は吟味するように願書が出され、役銀として年に六〇匁ずつ上納することを申し出て許可された。藩からは休業する者が出ても四軒を下回らないようにせよと申し渡されている。天保七年から九年の飢饉の間は入湯者が少なかったため、役銀は願いにより半額の三〇匁が上納されている。
 



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