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 第三章 商品の生産と流通
   第一節 都市構造の変化
    一 城下町景観の変化
      城下町の整備
 家中の引越し後、町家を建てて移住したいという商人が多くなり、享保六年五月二十八日の御用状によれば、陣屋前町の家数は一七軒に増えている。この中には、旧領地であった越後村上から来た近江屋三郎兵衛・福井屋弥作もいた。また、七月二日の御用状にも諸商売物・諸職人の「町並家作」を願い出る人が多いことが記され、同十一年の日記にも二月・三月・六月・八月と町家を願い出た記録が残されている。十一年の日記に記された願人七人の出身地は、不明の一人を除くと、地元の西鯖江出村・西鯖江村・東鯖江村が各一人、付近の丹生郡西番村・下大虫村が各一人の他に、越後村上片町が一人である。このように町家が増加した結果、十四年の鯖江町の家数は北陸道の西側五八軒、東側六五軒の合計一二三軒となった(加藤新左衛門家文書 資5)。
 幕府領時代から鯖江の陣屋町の部分は西鯖江村高に含まれ同村庄屋が管轄しており、町年寄などはいなかった。鯖江藩もこれを踏襲し、郡奉行が支配していた。しかし、家数が増加し町としての体裁が整ってきたので、享保十二年七月十二日に同元年から町奉行であった清水五郎右衛門の支配下に移され、八月六日には斎藤屋宇兵衛が町名主に任命されて、鯖江町の支配体制が整えられた。
 享保十三年からは、二代藩主詮方の初入部に先立って、種々の普請が行われた。三月・四月に陣屋内の長屋や武具蔵などの屋根の葺替えが行われ、八月には舂屋、九月には土蔵の普請が行われた。また、八月には喰違土居も新設された。これは鯖江町の北陸道の出入口に防御施設がないため、同年六月に幕府に願い出て、八月に建設が許可されたものである。南北とも高さ七尺、長さは南口が延べ三九間、北口が延べ四〇間半の規模であった。藩主居館となる陣屋の普請は同年十月に許可され、雪の消えるのを待って、翌年二月から始められ、五月に竣工した。また、享保十七年十二月五日には、鯖江町市場の市日を五日・十日の六斎市とすることが定められ、十二月十五日に初めての市が開かれ、城下町として次第に整備されてきた。



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