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 第二章 農村の変貌
   第四節 漁村の変貌
    四 枝浦の独立
      城ケ谷の反子
写真49 新保浦(「海岸図面」)

写真49 新保浦(「海岸図面」)

 次に丹生郡新保・城ケ谷両相木家の文書から城ケ谷反子の独立の過程をみてみよう。城ケ谷反子は、新保浦の森五右衛門と津田清太夫の両人の支配を受けていたが、承応二年(一六五三)十二月、零落した五右衛門の屋敷と漁舟五艘(うち三艘反子舟)を買い取った同郡小曽原村相木宗兵衛が浦方に進出してきた。相木本家は福井藩の御用商人であり大野藩西方領(織田郷)の年貢米の請米と廻漕にも当たっている豪商でもあった。一方、清太夫も、延宝八年(一六八〇)に譜代漁師であった反子を宗兵衛に売り払った。五右衛門の三艘、清太夫の五艘、計八艘の反子舟の支配が宗兵衛の手に移り、城ケ谷反子集落のすべて「地面不残、人家・掟等も其儘ニ引渡シ永代売」となった。反子集落は「荒浜之地面・諸役免許」とされており、彼等の中から三人の「役人」(締方)を申し付け反子支配の手伝いとしてきた。また、本浦の冥加のため、舟一艘につき「水役銀」年一〇匁を親方に納めさせ、親方より庄屋へ上納していた。
 元禄元年、宗兵衛は反子の集落のある城ケ谷に広大な居屋敷を構え、いくつもの蔵や納屋を建てここに隠居した。宗兵衛の死後、次男惣兵衛が城ケ谷相木家を継いだ。宝永二年(一七〇五)より、新保浦の本宅を継いだ長男加左衛門と生計を二分し、城ケ谷反子は惣兵衛一人の支配となった。
 明和八年反子支配について、「取極」がなされた。その内容は、反子五人組頭は親方が決め、村方より御条目申渡しの際は、親方は五人組頭を召し連れてくること、反子は舟一艘につき「歩銀」月一六匁と、水役銀年一三匁二分五厘をそれぞれ親方に差し出すこと、村役人への直願は禁止することなどであった。
 安永六年(一七七七)、親方は縁者で福井の大商人であった慶松家の援助を受け、同家の「通い」を受けて漁業経営の勘定をすることになった。反子の水揚げの半分は常に親方の納屋買入れとし、藩の御用肴などの場合には浜相場ですべてを親方に納めること、抜売りを厳禁し、さらに男奉公の場合は、給銀の四歩を親方に差し上げる「定」が決められた。この「定」について反子一二人が請書を出している。
 文化八年(一八一一)には水役銀が改定され、二八匁二分五厘に増額されたが、庄屋直納に代わった。しかし、親方への月一六匁の役銀の外に、漁売揚高に「五歩口銭」の納入が新規に定められた。一方、親方よりその反対給付として増額の水役銀のうちから八匁五分の手伝いが反子に与えられることになった。五分口銭は親方仕込みが不都合になって、他浦・他商人仕込みを招く結果となり、これに対する他浦・他商人への魚売りが始まり、この魚の売上げに口銭を掛けることになったものである。親方はこの「五歩口銭」で新事態を乗り切ろうとしたのである。反子の人身的支配が困難になった親方は、魚介類の販売における「口銭」取得に生計を掛けるようになり、商人からも「五歩口銭」を徴収することにした。反子は従来から他浦並みの三歩口銭を掛けられており、今新たに、五歩を追加され、さらに商人に掛けられた五歩口銭も結果として反子の負担になったため、都合一割三分の引(負担)となった。反子はこれに抗議したが、本浦の新保に押し切られた。その後、文政二年魚商人への五歩口銭は廃止され、親方仕込銀への返済は、惣売代銀から二割ずつ支払うことになった(片岡五郎兵衛家文書 資3)。
 文化頃には、反子も二〇軒に増加し、親方・子方関係もさらに変化をみせた。一方、新保浦の内部にも、大方百姓と小方百姓の間に対立が生じ、遂に浦方は「小方庄屋」を認め、本浦では庄屋が二本立てとなっていた。
 文政十年には、増大する反子に対して親方仕込みがままならず、「他浦仕込み」が一段と進んだ。反子側からは、「仕入方も相頼不申、五歩口銭も相渡不申」という事態になり、「月々の役銀さへ相渡候へハ、外ニ子細無之、銀子も借受不申、魚も相渡」し申さざるというほどの極めて強い調子で、親方・子方関係を純粋に経済的関係ととらえるようになっていた。幕末も弘化(一八四四〜四八)頃になると、「漁業而已為働」る反子の中から「磯廻り商船」を仕立て福井城下にまで進出する者が現れた。また「干烏賊」などの水産加工は、他浦でも仲買人の仕事であり、漁師には禁じられていたが、これに進出する者が出現するにいたった。これらの動きは、城ケ谷の川向かいにある小樟浦の出村である谷村(西村)の生業を見習ってのことであった。城ケ谷反子の独立は経済から政治への段階へと目前に迫っていた。
 しかし、その実現は、鮎川清水谷反子と同様、明治維新をまたねばならなかった。鮎川がかつて藩への御立山に上納した、かの「国見岳」を城ケ谷の地所として与えられ、「浦名改而城ケ谷浦ト別浦ニ御取立之上、屋敷之義者、従前新保浦地所ニ居住罷在候処、是又改而御用地ニ被召上、城ケ谷浦屋敷地ニ被下置候」こととなり、城ケ谷反子の念願が清水谷反子同様、「御一新」を迎えた明治二年に初めて一応の実現をみたのである。
 独立後の明治六年、城ケ谷浦の船数や漁獲高を本浦新保と比較すると、手繰網漁船はともに一八艘であるが、新保浦に二艘ある商船(五〇石積未満の磯廻り船)は城ケ谷浦にはなく、鯣の加工品もない。幕末の一時期行われた城ケ谷の廻船と干烏賊は姿を消している。また、鰯網や鰍漬木漁のような定置性の漁業や鮑・栄螺などの浅海の潜水漁業は、本浦の新保にあるが枝浦であった城ケ谷にはないのである。近世初頭の外来漁民である反子集落は磯漁場(磯漁)からは締め出され、入会漁場である沖合の漁業(沖漁―釣漁と網漁)だけしか認められなかったのである(表71)。独立の浦となった明治以降も本浦に属する磯漁場は彼等に容易には開放されなかったのである。
 反子の独立は、一挙に上から与えられたのではなく、これまでの不断の努力が実を結んだものである。まず、最大の生産手段である舟の自分仕立てから、舟道具の自分仕立て、さらに家作や自給用の生活必需品の小商いに始まって、さらに積極的に水産加工から販売、そして廻船業などの流通機構にまで進出することにみられるように、経済的自立から始まり、その面では一応の成果を達成した。しかし、次の課題である政治的独立は遂に明治維新を迎えるまで達成されなかった。幕藩体制の成立期に定住を余儀なくされ、本浦親方に従属を強いられた西国出身の反子集落は、幕藩体制の終焉期にして初めて解放をかちえたのである。親方と子方のせめぎ合いは、あまりにも長くて苦しい闘争の歴史であった。

表71 明治6年(1873)新保・
城ケ谷両浦の船数と漁獲高

表71 明治6年(1873)新保・城ケ谷両浦の船数と漁獲高

表72 明治5年(1872)六か浦の村高・家数・舟数

表72 明治5年(1872)六か浦の村高・家数・舟数



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