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 第二章 農村の変貌
   第一節 近世後期の農業と農民
    三 農間余業の展開
      十一月の五本寺村
 大野郡の勝山町の北方にある五本寺村について、十一月一日(新暦十二月十二日)から十二月一日まで三〇日間の各家の各人ごとの毎日の仕事内容を調べた帳面がある(斎門六右衛門家文書)。年代不記、無表紙の長帳であるが、明治四年「戸籍人別取調帳」によって同年であることがわかり、さらに慶応三年(一八六七)「宗門人別御改帳」から年代は異なるが各家の持高もわかる。村高は一五一石一斗一升で百姓一四軒、水呑二軒であった。その内容の特徴的な点は、二十八日の休み日以外は病人と子供を除いて全員が働いており、男は藁仕事が主で、月の初めには薪・割木作りは終わっている。そして、十二日には積雪があり、男は一日から三日間かけて雪掻きをしている。女は裂織・苧外字などの布仕事をしているが、妻は「継ぎし」(衣類の繕いか)に数日から二十数日をかけ、大きい百姓の妻には「くいものし」(越冬用の貯蔵食作りか)に数日費やす者もいる。
写真22 五本寺村付近

写真22 五本寺村付近

 持高五六石余の村一番の高持は外字作する地主であり、「村長」でもあって八日間は「御用」で他出したが、普段は沓や莚を作っていた。五九歳の父は病気で一二日間仕事を休んだが、他の日は草鞋作りや縄ないをしている。村で二番目の三〇石余の高持で「頭分」の百姓も馬沓・莚・縄などの藁仕事、薪・飼葉採りで働いており、七三歳の老母も「火たき」(炊事か)をし、九日間は裂織をした。倅は一八日間も病気であったが他の日は薪採りや馬沓や草鞋作りをした。娘二人のうち一人はまだ一二歳であったが一九歳の姉とともに裂織・継ぎ・外字糸の仕事をし、薪仕事もしている。なお、上の娘は二十一日から「機織」の仕事にかかっているが、他にこの村では、右の一番目の高持の妻が二十九日から「布折」にかかっている。この史料で織布の仕事を記すのはこの二軒だけである。三番目から六番目の高持で「組頭」の百姓たちも仕事の内容は同様のもので、三番目の百姓の一四歳の倅は月初めの五日間は「手習」をし弟二人の子守もしたが、その後は藁仕事・雪掻き・六呂師への配符持ちなどをした。月末には病気になっている。四番目の百姓の一三歳の倅はどの日も「手習」をしていた。また、持高五石弱の百姓の当主は盲人であったが、縄・草鞋・深沓・馬沓を大体半人分ほどの能率で作り続けていた。ただ二十五日には子供と一緒に町へ行き、それまでに作った沓や倅・娘が作った俵などを残らず売ってきた。生産者自身が自分の生産物を売る、いわゆる単純商品生産の姿である。
 この村には持高三石未満が四軒あり、水呑は二軒であったが、仕事の内容は他の上層高持と同様である。ただ水呑の一軒は戸主が「車縄」を作っており、他にはこれを作る者はいない。また灰買いに二日間を充てている。そして、この家では十六日の日に草鞋二四足・深沓二足を売り、十二月一日には車縄を売っており、必要な生活費を半月ごとに得ているとも読みとれる。
 藁工品は他の高持百姓も売っていた。全戸にその記事はないが、持高一二石余の百姓は一か月分の藁細工の内から沓三四足・草鞋一五足を売り払ったとあり、九石余の百姓は沓二一〇足・米俵一八・縄五枚・莚四枚・裂織一二〇目を売り、二石余の百姓は莚四八枚・縄六一枚・草履七二足・裂織一八〇目・苧外字六つを売ったと記してある。持高が少ないほど藁工品を売る量が多いとも読みとれる。
 なお、この史料がなぜ作成されたかは未詳である。同種の史料は他に見当たらないので、御上の命令と考えるよりも、村の必要、例えば困窮からの成立ち趣法を励行する目的からなどと推測すれば、通例の働き方以上の状態を示すものかも知れない。しかし、当時の農民としてごく普通の藁仕事などに励むことで、少なくとも中位以下の高持や水呑にとって、現金収入の途が得られたことはたしかである。



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