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 第二章 農村の変貌
   第一節 近世後期の農業と農民
    二 農業経営の変容
      農業奉公人の給分
 近世の中期以降は、一般庶民も商品・貨幣経済に入り込んで色々な物を金銭で購買することが増え、また全国的に米の生産量が増えたこともあって、全般に米価安・諸色高の状況が進んだ。この相対的な諸色高は農業奉公人の給米銀も高くする傾向にあった。例えば、右の大野郡今井村の地主三郎兵衛家の文政九年「戌小作米請取帳」(山田三郎兵衛家文書)には、「給米覚」の項に月二〇日勤めの男二人は四俵、三俵三斗、女二人は一年間に三俵三斗、一俵などとあるが、先の天保十三年の史料(同前 資7)では月二〇日勤めの上男は米四俵が近年四俵三斗に、中男は三俵が近年四俵に、上女は一年に三俵が近年四俵に、中女は二俵が近年三俵二斗になったと書き上げている。また「日雇」についても、女は従来から銀一匁であるが、男は一匁五分であったが近年は二匁であると記している。すなわち、この間、男女給銀や日雇賃銭は漸次増えているとみられる。それは若狭でも同様であった。弘化元年十二月に遠敷郡上根来村では「手間之定覚」を惣村役人中として定め、男一人銀一匁五分、女一人銀七分などとし、これに増賃銭した者は吟味し、その人に銭一貫文を村方へ出させるとして、賃銭の抑制をはかっている(上根来区有文書)。
 また、大野郡下麻生島村の地主次郎右衛門家の嘉永三年(一八五〇)「大福帳」(嶋田次郎右衛門家文書)に三人の奉公人の給銀が記されており、いずれも増銀と物品給付があったことがわかる。すなわち順之助は給米二俵一斗に増給米七升五合と笠代銀五分、九左衛門は給米三俵に増給米一斗と笠代銀五分、つるは給米三俵に木綿と「さんくり(裂織)」一つと笠代銀五分であった。そして、この地主は一五六石余の持高の内、この年の収穫として米二八俵二斗八升分を手作りしていたが(「御高小作米覚帳」嶋田次郎右衛門家文書)、一六年後の慶応二年(一八六六)正月の「御高小作帳」(同前)では手作地収穫量は米一一俵二斗九升と記されているから手作りは半分以下に縮小されたとみられ、さらに、当年より米六俵三斗二升五合を収穫した土地を外字作する予定にしている。手作りはさらに半減するわけで、残り五俵ほどの手作りではせいぜい飯米分の程度であろうから、寄生地主化の途を選んだものとみなしてよいであろう。
 しかし、他の地主の事例では大きな手作り耕作を維持した地主もあり、その方が多かったとも思われる。したがって奉公人も減らさずにいたであろうが、幕末期には右のように増銀などを支給するとともに、次の例では一年ごとに給米銀を渡し、かつ本人に渡すようにもなっていた。近世の基本的な奉公形態は質物奉公人で、年季奉公の契約時に前金として給米銀を家の戸主が受け取り、その元利の質として倅や娘などが奉公するとされるから、それより進んだ形である。前述した今立郡小畑村の地主の元治元年(一八六四)「男女給銀渡帳」(安達仲弥家文書)では、一年分の給金全部を本人へ渡す、一部を本人に渡す、他人へ渡すなどの方法があったことがわかり、またそれまでの借銀を給金から指し引いたり、奉公人の家の支出を取り替えて出したり(貸付になる)、小作米が滞ったので、あと二年間奉公する約束にしたりしていることがわかる。この帳面は明治三年(一八七〇)分まで書き継がれているが、男奉公人の給分は銀で支払っていたのが慶応二、三年から米一俵と定めて米の支払いに切りかえている。おそらく当時の急激な物価高騰の下で給銀が上がったためと思われ、例えば下男元助は慶応元年三〇〇匁が翌年は四〇〇匁に、下女そめは一五〇匁から二〇〇匁になっている。そして善吉や栄助は慶応二年の銀子支払いが翌三年米一俵に代わり、辰吉も明治元年から米一俵になった。ところが慶応三年の米相場は米一俵が銀五〇〇匁、翌明治元年は四五〇匁相場であった。地主としては損をしたことになるためか、明治元年善吉の項に「銀三百五拾匁之約束」と記されている。しかしこれでは奉公人が困るはずで、同二年には米一俵のほかに栄助に銀三〇〇匁、辰吉に銀一〇〇匁を増給銀として渡したりしたが、翌三年には、栄助・辰吉・善吉の三人、つまり下男全員が閏十月八日から近江へ外字ぎに出かけており、また、地主はこれまでの栄吉、辰吉への貸銀五一八匁余の利息分を用捨している。幕末の急激な物価高騰の下で、地主も奉公人も苦しい状況であったことがうかがわれる。しかし、それにしても小畑村の男給米一俵というのは先にみた今井村や他の事例に比べて少ない。事情は詳かでないが、「地借」の労働力なのであろうか。



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