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 第一章 藩政の推移
   第一節 所領構成の変化
     三 紀州領と飛領
      西尾藩領
 松平和泉守乗佑は明和元年(一七六四)大坂城代を命じられるとともに、領知を出羽山形から三河幡豆郡西尾に移され、西尾とその周辺二万七〇〇〇石のほか、越前国内の幕府領のうちから三万七〇〇〇石を与えられた。その所領は丹生郡四一か村二万〇七一三石余、南条郡一四か村四二七三石余、坂井郡一八か村一万二〇一三石余で、丹生郡天王村に陣屋を置いた。
 西尾藩主松平家は歴代、大坂城代・京都所司代・老中など幕府の要職に就いている。大坂城代・京都所司代などの役職は、所領を摂津・河内・和泉の内に与えられる慣例になっていたため同藩の領知は転変が多かった。畿内で増減した分の領知高は、三河での所領の異動をできるだけ避け、越前における所領を増減させることで都合がつけられたので、越前での所領は、乗佑が明和二年大坂城代になった時に越前領一万石を河内国内にて交換されたのを初めとして、幕末まで絶えず変動があった(表8)。

表8 越前における西尾藩領の変遷

表8 越前における西尾藩領の変遷

 天王陣屋は西尾藩の郡方役所の支配下にあり、郡奉行支配下の代官を初め地方役人・手代等一〇人程度の者が西尾から派遣されていた。当初は、陣屋を設置したり年貢徴収の方法を決定するため、大代官や郡奉行が派遣されるなど越前統治の基礎固めに力が注がれた。年貢の地払いが始まった明和七年や、検見制から定免制へ移行する安永元年(一七七二)に郡奉行が派遣されているのもその例である。なお、代官の多くは再任されているが、二、三人いた地方役人は、職務に支障をきたさないよう前年に引き続き勤務する者を一人は残留させたものの、他は長くても三年程度で交代している(『西尾市史』)。天王陣屋付近には「割元小屋」が置かれ、支配下村々への年貢割付のほか、郡中盛や徴収を任された「割元」が詰めていた。「割元」は天王村の庄屋を初め、大庄屋で郷中総代筆頭の天王村内藤武左衛門と同村内藤庄左衛門等、領内の数人が務めた(同前)。
 越前領の年貢米は、明和元年から数年は一部は天王村の地元蔵に納められたが、大部分は陸送および日野川・九頭竜川の水運を利用して三国湊の蔵に収納され、大坂に運ばれて売り払われた。しかし、三国湊までの運搬が百姓にとって大きな負担であったこともあり、明和七年以降は地払いとされた。地払いの世話役は、天王村内藤武左衛門・高橋重兵衛と丹生郡下野田村丹尾清左衛門の三人が担当し、百姓から年貢米を買い取り陣屋へ金納した(『西尾市史』)。なお、その際の取引きには藩札が使用されたようである。陣屋ではこの収納金を西尾や大坂に送金したが、不足分は地払いの世話役三人から借用調達金として徴収した。安永五年には一三八七両を領内村々の先納金から調達させており、藩との交渉で天明元年(一七八一)から一〇年賦での返済が取り決められている(内藤源太郎家文書 資5)。このように逼迫した藩財政の中にあって、飛領の支配は地元有力百姓に依存しながら幕末まで存続したのである。



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