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 第二章 藩制の成立
   第一節 福井藩と小浜藩の成立
    四 小浜藩の成立
      藩主と領地の変遷
 忠勝が明暦二年致仕し、家督を子の忠直に譲ったあと、忠隆・忠囿・忠音・忠存・忠用・忠與・忠貫・忠進・忠順・忠義・忠氏・忠禄(忠義の再封)と続き、幕末を迎える(表17)。

表17 小浜藩主一覧

表17 小浜藩主一覧
注) 忠禄は忠義と同一人物で再封.

 歴代藩主のうち四代忠囿には跡を継ぐべき男子がなく、鞠山藩主忠稠の二男忠音が養子となり五代藩主となった。忠音の後は、その子忠存が継ぐが、若くして死去したため忠音の四男忠用が忠存の嗣となり六代藩主となった。忠用の後は忠音の五男忠與が忠用の跡を継いだ。忠與の跡は、忠用の子忠貫が継ぐが、『寛政重修諸家譜』では忠貫は忠與の実子とされている。忠貫には実子忠順があったが、忠順が幼かったため、鞠山藩主忠香の七男忠進が忠貫の跡を継ぎ、その跡を忠貫の子忠順が継いだ。しかし忠順には子がなかったため、忠進の長男の忠義が跡を継いだ。忠義は、公武合体後の政争で隠居を命じられ、一族で五五〇〇石の交代寄合  であった忠欽の七男忠氏がその跡を継いだ。さらに鳥羽伏見の戦いのあと忠氏は隠居を命じられ、忠義が忠禄と名を改めて十四代藩主となった(『寛政重修諸家譜』、酒井家文書)。
 この間、寛文元年忠直の時、下野佐野領一万石のうちの四五〇〇石余りが「御用地」として幕府に召し上げられ、安房平群郡において七三〇〇石が替地として与えられた。しかし、増加分の二七〇〇石は物成積とされ本高には加えられなかった。次いで、寛文八年には、慶安二年に廃嫡された兄忠朝の子忠国に越前敦賀郡のうちで五五〇〇石、安房平群郡で四五〇〇石、計一万石を分け与えた(『寛政重修諸家譜』など)。敦賀郡の所領は、郡の西南部粟野地区で野坂村他一〇か村に比較的まとまって設定された。忠国は、安房勝山を居所としたことで、その所領は勝山藩と呼ばれた。所領の村々は、敦賀郡では寛文十年八月七日に小浜藩から勝山藩の役人へ引き渡された(『敦賀市史』通史編上巻)。
 天和二年(一六八二)七月十日、二代藩主であった忠直が没し、その遺領一一万三五〇〇石のうち一〇万三五〇〇石は忠隆が継ぎ、残る一万石は忠隆の弟忠稠に分知され、さらに新田三〇〇〇石が忠直の五男忠垠に与えられた(『寛政重修諸家譜』など)。忠稠の所領は、のち敦賀郡の鞠山に陣屋が置かれたことで鞠山藩と呼ばれ、忠垠領は、敦賀郡井川村に代官所が設けられたことで井川領と呼ばれた。
 忠稠の領地は、五〇〇〇石が敦賀郡のうちで、残る五〇〇〇石が近江高島郡のうちで渡された。敦賀郡の所領は、郡東部を中心に二二か村に設定された。
写真50 鞠山藩陣屋絵図

写真50 鞠山藩陣屋絵図

 忠垠領は分知にさいして幕府から「敦賀郡においての新墾田三千石」とされたが、実際には敦賀郡内の旧来の村々一一か村が渡され、それによって減少した小浜藩の高は、寛文二年の大地震とその後の浦見川の開削とによる新田村と若狭国内の新田の一部をもって充てられた。その結果若狭一国の表高は八万八五〇〇石となった。
 忠稠・忠垠の領地の村が実際に確定するのは、貞享元年(一六八四)の将軍綱吉による領知朱印状発給の折であり、それ以前はその所付けはなされていなかった(酒井家文書)。さらに鞠山藩の支配は、宝暦九年(一七五九)、井川領の支配は宝暦七年に分郷されるまで、本藩である小浜藩の役人によって支配された。
 元禄十一年下野にあった領地は越前今立郡と南条郡とに移され、次いで享保六年(一七二一)このうち今立郡の領地は、同じ郡内で村替えが行われた。これは、間部氏の鯖江入封にともなってのものである。さらに、越前の領地は、忠音が大坂城代に就任したため享保十二年六月大坂に近い摂津有馬郡に移された。しかし、この領地は、享保十四年、忠音が大坂城代から老中に昇進したことで、再び越前の元の地に戻された(『寛政重修諸家譜』、酒井家文書)。この後、小浜藩の藩領は、幕末まで変化することはなかった。



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