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 第七章 若越の文学と仏教
   第一節 郷土と文学
    二 『万葉集』と歌謡
      大伴家持と大伴池主
 天平十八年大伴家持が越中国守として赴任し、その地で多数の和歌を『万葉集』に残したことは有名であるが、当時、越中掾に親戚の大伴宿池主がいた。彼らは互いに歌を詠みあったが、池主は天平二十年三月十五日以前に越前掾として転任している。
 天平勝宝二年四月三日、家持は霍公鳥の声を聞き、懐旧の情に堪えず、長歌ならびに短歌を越前にいる池主に贈った。
  わが背子と 手携はりて 暁来れば 出で立ち向ひ 夕されば 振りさけ見つつ 思ひ
  暢べ 見和ぎし山に 八峰には 霞たなびき 谷辺には 椿花咲く うら悲し 春し過ぐ
  れば 霍公鳥 いや頻き鳴きぬ 独りのみ 聞けばさぶしも 君と吾 隔てて恋ふる 砺
  波山 飛び越え行きて 暁立てば 松のさ枝に 夕さらば 月に向ひて 菖蒲玉貫くま
  でに 鳴き響め 安眠寝しめず 君を悩ませ
  われのみし聞けばさぶしも霍公鳥丹生の山辺にい行き鳴かにも
「丹生の山辺」は、特定の山を指すというより、越前国府周辺の丹生の山々くらいの意味
であろう。
 同年四月九日、家持は鵜を池主に贈り、長歌ならびに短歌をつけた。
  天離る 鄙としあれば 彼所此間も 同じ心ぞ 家離り 年の経ぬれば うつせみは 物
  思繁し そこ故に 情なぐさに 霍公鳥 鳴く初声を 橘の 珠に合へ貫き 蘰きて 遊
  ばはしも ますらをを 伴へ立てて 叔羅川 なづさひ沂り 平瀬には 小網指し渡し 
  早き瀬に 水烏を潜けつつ 月に日に 然し遊ばね 愛しきわが背子
  叔羅川瀬を尋ねつつわが背子は鵜川立たさね情なぐさに
  鵜川立ち取らさむ鮎の其が鰭はわれにかき向け思ひし思はば
この長歌・短歌における「叔羅川」が越前国府の近くを流れる今の日野川であることは容易に推定できるが、その訓みについては「しくら」「しらぎ(しらき)」の二説がある。「しくら」説が通説的地位を占めているが、賀茂真淵・鴻巣盛元・折口信夫・土屋文明らは「しらぎ」としている。これらに対して「叔」を「しく」と訓む例が『万葉集』にはほかにないこと、中世や近世の川名の「シラキド」「シラキジョ」との関連、今庄町の新羅神社の存在などから、「しらき」とする説もある(柴田知明『足羽という地名』)。
 なお家持には別に、天平二十年三月、左大臣橘諸兄の使者である造酒司令史田辺福麻呂を迎えて饗応したときの歌群があり、その最後の歌に越前の地名が出てくる。
  かへるみの道行かむ日は五幡の坂に袖振れわれをし思はば
これは田辺福麻呂の帰路を思いやった歌であるが「かへるみ」は鹿蒜の地名に「顧みる」の意味を掛けたのであろう。今庄町に「帰」の大字名が残っており、「五幡」も敦賀市の地名として残っている。鹿蒜から五幡へは山中峠を越えねばならず、五幡の坂とはそのあたりの峠路を指しているのであろう。
 以上、家持の歌のなかには「丹生」「叔羅川」「かへる」「五幡」などがみられるので、家持が越前国府付近の地理についてかなりの知識をもっていたらしいことは注目される。



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