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 第六章 若越中世社会の形成
   第四節 北陸道の水陸交通
     三 武者往来の道
      源平北陸合戦
 治承四年(一一八〇)四月、以仁王の平氏追討の令旨によって源頼朝が伊豆に、源(木曾)義仲が信濃に、武田信義は甲斐に挙兵して源平の戦いが始まった。義仲は以仁王の子北陸宮を擁し、北陸道から都へ攻め上る勢いであった。『吾妻鏡』『平家物語』『玉葉』『吉記』『源平盛衰記』などから北陸道の様子を拾ってみると、その動向の概略をつかむことができる。
 同年十一月には北陸の武士らが清盛追討に傾くと、平維盛はその鎮圧のため越前国に下向している。養和元年(一一八一)七月には越前の武士たちも義仲側に同意し、平氏追討側につく。しかし、平氏との人的関係から平氏軍に加わった武士もあった。八月、中央では北陸道追討宣旨が下され、平経正に次いで平通盛が越前国へ下向する。九月、平氏軍と義仲軍は越前・加賀国境での合戦となる。初め平氏軍についていた越前国の住人稲津新介・前従儀師斉明(斎明・最明・斉命)の寝返りによって平氏軍は後退を余儀なくされる。さらに通盛は国府に留まって挽回をはかったが、義仲軍の勢いに押されて水津へ退却し、ここでも敗れて通盛は敦賀、経正は若狭へ退き、通盛は十一月に帰京している。
 寿永元年(一一八二)二月には新平中納言(教盛)、七月には重季が北陸道へ源義仲追討のため下向した。さらに翌年の四月には、維盛率いる平氏の大軍は義仲追討のため北陸へ向かった。『源平盛衰記』には、このときの平氏軍が琵琶湖の東・西から北陸に進軍したとし、東・西の行軍経路がくわしく記されている。以下、それによれば、東路軍は、粟津が原・勢多の橋・野路の宿・野洲の河原・鏡山・山田矢走の渡し・志那今浜・片山・春の浦・塩津の宿・能美(野宇美)越・中河(中河内)・虎杖(板取)崩を経由して還山に至っている。この能美越えルートは近世の北国街道で、栃ノ木峠を越える道である。西路軍は、大津・三井寺・片田(堅田)の浦・比良・高島・木津の宿・今津・海津・荒乳の中山・天熊・国境・匹壇(疋田)・三口(道口)・敦賀津・井河(井川)・坂原(葉原)・木辺山(木ノ芽山)・新道を経由して還山に至り、ここで東西路の両軍が合流し義仲軍と対峙した。一方、義仲軍は北陸道とくに加賀・越中の武士を主力として六〇〇〇余騎、「越前の国府、大塩・脇本・鯖波の宿・柚尾(湯尾)坂・今城(今庄)まで」連なり、陣は湯尾峠に、城は燧(火打)に構えて、能美川と新道川の落ち合う所を大木でせきとめて人造湖をつくり、一〇万余の平氏軍の攻撃を防いでいた。
図103 燧城付近

図103 燧城付近

 このとき、平泉寺の長吏斉明は義仲の命令で一〇〇〇余騎を率いて、大野郡を経て池田越えにて燧城に到着してたて篭もっている。平泉寺の勢力をバックにしたこの斉明軍はどの道を通ったのであろうか。1美濃街道(現在の国道一五八号線)沿いの大宮・境寺、足羽川に沿って東河原・折立・松ケ谷・野尻・稲荷・菅生、田倉川に沿って瀬戸・小倉谷・古木・燧城 2上丁・中手・東河原、以下1に同じ、3宝慶寺・大本・千代谷・松ケ谷、以下1と同じ、4堀兼・中島・巣原峠・水海・稲荷、以下1に同じなどのルートが考えられるが、比較的短捷路である2のルートが利用されたのではなかろうか。斉明率いる武力集団の参加によって義仲軍の士気は大いにあがったはずである。
 しかし、斉明の再度の寝返りによって、平氏軍が義仲軍を攻めたてると、無勢の義仲軍は加賀へ退却せざるをえなかった。都に届いた手紙によると「四月二十七日に越前国燧城にて当国平泉寺長吏斉明降人に参す、すなわち先陣を申請けて案内者として、当国の輩を打随え五月二日加賀国へ乱れ入る」(『源平盛衰記』)とある。斉明は北陸一帯の道路を知り尽くしていたであろうから、退却する義仲軍を追撃するには官道だけでなく、そのほかの小路も利用したに違いない。平氏軍の主力は丸岡・長畝・疋田・中川・金津・細呂木というルートで加賀国に入って、越中国まで攻め入ったのであるが、白山信仰の拠点越前馬場平泉寺と加賀馬場白山宮をつなぐルート、つまり勝山から谷峠を越えて加賀国に入り、手取川に沿って下り鶴来町に出る現在の国道一五七号線にあたる道も、平氏の騎馬武者は利用したことであろう。
 ところで、義仲の最初の越前進軍の時にさかのぼるが、『吉記』の養和元年九月一日の条に「去月二十三日に賊徒が越前国に乱入し、大野・坂北の両郡を焼き払った。加賀国住人達の為す所であるという」と記している。加賀国の義仲軍は、加賀の手取川河谷を南下し谷峠を越えて大野郡に入ったのであろう。一方、加賀平野南部を海岸寄りから熊坂峠越えあるいは細呂木経由で坂北郡に攻め入ったものと考えられる。
 義仲は倶利伽羅峠の戦いで大勝したのち、白山宮加賀馬場の本宮や金劔宮、越前馬場平泉寺に社領を寄進しているのは、白山馬場の神人・衆徒の武力を頼みとし、戦勝と身の安全を祈願するためであろう。おそらく、これらの馬場と北陸官道を結ぶ道路は発達していたと思われる。はじめは逃げる義仲軍を追う平氏軍、あとは逃げる平氏軍を追う義仲軍、ともに北陸官道はもとより大小の道路が利用されたのである。



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