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 第四章 律令制下の若越
   第五節 奈良・平安初期の対外交流
    一 渤海使の来航と縁海諸国の対応
      渤海と日本との交渉
 渤海と日本との交渉は、七二七年、国書と方物(贈り物)をたずさえた渤海使が日本に来航し、翌年、日本の送使を同行させたことに始まり、九二六年、契丹に渤海が滅ぼされる直前の九一九年までの間、渤海使は約三四回派遣された。その交渉の一覧は表35に示した。なお、九二九年十二月、渤海を滅ぼした契丹族が建国した東丹国の使が丹後国に来航しているが、東丹国には多くの渤海人も臣従し、東丹国大使も最後の渤海大使の裴である。一方、日本からは約一三回の遣渤海使が派遣されたが(表36)、ほとんどが送使であり、弘仁二年(八一一)に出発した使を最後に、日本からの使の派遣は途絶える。このほか、遣唐使が渤海経由で入唐および帰国したこともあった。日本と渤海との交渉は、初期は唐・新羅との対立という東アジア情勢のなかで、渤海側からの政治的な目的で行われた。
 初めての渤海使は、唐・新羅との一連の武力抗争の発端となった渤海の北方に位置する黒水靺鞨部が渤海領内を無断で通過し唐に通交したという、七二六年の事件の直後であった。そのためか、当初しばらくは武官(将軍)の大使を派遣しており、天平宝字年間(七五七〜六四)の仲麻呂政権下でのいわゆる新羅征討計画には渤海が加担していたという説もある。そののち、八世紀後半からは貿易を中心とした関係になり、宝亀年間、「鉄利部」の人びとを大量に派遣するなど変則的なケースもあったが、九世紀になると定員が一〇五人前後に定着し、文官が大使となり、遣使派遣の年期も定められ、定期的な経済交渉が中心となった(石井正敏「初期日渤交渉における一問題」『史学論集 対外関係と政治文化』一)。
 渤海との公的な交渉で両国の友好関係が保たれるとともに、貿易および文化交流が行われた。渤海使が日本にもたらした物としては、貂や大虫(虎)の毛皮など皮革製品や蜂蜜や人参など自然採集品が中心であり、平安貴族が貂裘(貂の皮ごろも)を愛用していたことは有名である。このほか、貞観元年(八五九)正月ごろ、能登国に来航した渤海使によってもたらされ、貞観三年から貞享元年(一六八四)まで八二四年間も用いられた『宣明暦』(『長慶宣明暦経』)、貞観三年に渤海大使李居正が将来し東寺や石山寺に所蔵された『尊勝咒諸家集』や『佛頂尊勝陀羅尼記』などの仏典に代表されるように、渤海使は大陸の文化・文物ももたらし、日本の文化に少なからぬ影響を与えた。さらに南海産の玳瑁で作られた盃や麝香の将来など、唐と日本との中継貿易的な役割を果たしていた。反対に日本からは、絹・・綿・糸など繊維製品、黄金・水銀・漆・海石榴油・水精念珠・檳榔の扇などが渤海にもたらされた。また、聖徳太子の著とされる『法華義疏』『勝鬘経義疏』の唐への流伝を渤海が媒介したことも知られており、日本の遣唐使および留学生が渤海経由で唐に渡ったり、帰国したりしていることから、渤海の日唐間の中継的な役割が注目されている。



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